メとハ

雑感から世界をつくる試み

中動態の世界 國分 功一郎

哲学とアートが好きな理由は、
哲学者とアーティストに憧れを抱く理由は、
抜き差しならない個人の問題意識が表現されるからだ。

哲学者は机上で真理を探求していると思われるが、
その実は、彼ら自身の無視できない問題意識を、
いかに言語化し概念化し、理解し世界に落とし込むか、という
不断の取り組みを続けている。
でもないと、かくも複雑で難解で抽象的な問題を、
あれやこれやと言葉を駆使して長大な文章を書き上げられないだろう。

アートも同じだ。
ただ自己を表現したいという浅薄な欲望に突き動かされるのではなく、
彼ら自身が無視できない問題意識、
逆に言えばそれに立ち向かうことでしか生きていけないような壁に向かって、
それを打ち壊すという果てのない夢を想いながら
(そして打ち壊すことなど決して叶わないという絶望も抱えながら)
苦悩しつづける存在が、アーティストだ。
その中に時たま見える一筋の光(もしくは一筋の光も見えないという絶対的な諦念)を、
言葉に絵に音に彫刻に表出させ、世界に還元する存在だ。

そして彼らに尊敬を抱くもう一つの理由は、
その表現の際に、自分の背後で夢半ばで倒れてきた「仲間たち」
世界に立ち向かいつづけてきた同じく哲学者やアーティストの想いを、
全力で受け止めて更新しようとする態度だ。

自身が抱える問題意識は、
広い世界の長い時間のある時点で立つ自分に、偶然にも舞い降りたもの。
その背景には社会があり歴史がある。
問題意識はゼロから自分の意志で意識しはじめるものではなく、
器としての自身が過去から受け継いだバトンのようなものだ。
そしてどうにか一歩でもそのバトンを次の走者に繋いでいく、
その不断の営みが哲学でありアートである。

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さて従来の(近代的な?)哲学とアートの手法が、
ここに来て「効かなくなってきている」と感じる。

ひとつの理由は経済の進歩かもしれない。
哲学もアートも、その昔は高等遊民の戯れであった。
裕福で生活に余裕があってはじめて、自身の問題意識に取り組む時間が取れる。
その状況は、必然的に哲学とアートが権力に結びつくことを要請する。
権力者は哲学やアートを保護し、恐らくは彼らに畏敬の念を示しながら、
自らの生きる理由を代弁する存在として彼らを活用しようとした。
そして彼らも、その状況に従わざるをえなかった。

今はどうか?
少なくともここ日本では、1億総中流の時代を経て、
明日の食べ物に困らないという人が増えている、と言ってよい。
貴族の遊びでしかなかった哲学とアートは、大衆に開放される素地を獲得した。
生活を保ちながら、一方で「自分とは何か?」「生きるとは?」「世界とは?」
という疑問を日々の中で差し挟む余地が生まれてきたのだ。

近代的な哲学とアートの手法が効かなくなってきていると感じるもう一つの理由は、
権力の相対化と、価値観の多様化があるかもしれない。
(そしてそれはメディアの変化がもたらしたものだ)

もはや誰も政府が偉いとは思わない。大企業の社長が偉いとも思わない。
起業家がかっこいいと思う若者がいる一方で、
フリーターとして楽しく生きられればいいやという若者がいる。

誰かの世界観に依存して生きることは、「あえて」それを選択しない限り、
そもそも選択肢にすら入らないようになっている。

逆に言えば、自分らしく生きることが今までに無いほど強いられる時代だ。
君はどう生きたいのか?なぜそれをやるのか?したのか?
明日はどうする?どうしたい?
意志と責任を常に尋問され続けるのが現代である。

その中で、「私はこう考えるんです」と一方的に押し付ける思想は、
倦厭され無視される存在となってしまう。
いくら真剣に苦慮し、どうにか世界に還元しようと思って吐き出した痛切な叫びも、
この現代を生きる上では一つの「つぶやき」と同列であり、
ときにはノイズとしてミュートされる。

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それでも、である。
自分は哲学とアートが継いできた歴史を愛おしく思う。
そこには人間と世界に対する絶望と愛がある(ふたつは裏返しだと思う)。
くそったれでどうにもならない現実を、どうにか生き延びるために、
哲学者は言葉を積み重ね、アーティストは表現を信じてきた。
その態度はどこまでも人間らしい。
人間が世界に存在しつづけるためには、
哲学とアートが必要だ。

では、である。
哲学とアートは、現代においてどう成立できるのか?
権力に紐付いた、口うるさい親の小言と思われることから脱し、
人々が生きるために時に縋りたくなり、
時に自ら上手に操り、
そして自ら、ひとつひとつ紡いで伸ばしていくような
糸のような存在に、どうすればなれるのか?


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ひとつのヒントはフラットさにあるのではないか。
目線を揃え、ともに考える。
そこに参加している人が、それぞれの問題意識に取り組める、
しかしそこには一定の共通意識もある。
そのために必要十分なものが、上質な状態で揃っている空間のような、哲学とアート。
まず考えはじめるための身体になるための、気持ちのよい空気。
そこに、考えるヒントとなる情報が、文脈として整理されつつも、
ひとつひとつの具体的な粒として並んでいる。

それは気持ちのいいゲストハウスに似ている。
洗練された都会的な空気を持ちつつも、実家のような居心地のよさがある。
(英語ではcozyと形容するらしい?)
見知らぬ個人が、その街をそれぞれの目的で訪れた一人一人が、
食事を共にし、川の字で眠る。
美味しい食事と、気取らずも十分に疲れの取れる布団。
訪れた人が残した感想ノート。
僕らは他人でありながら家族のようでもあり、
異邦人でありながら住人のようにもなれる。

日常と非日常が絶妙なバランスで溶け合っている。
具体的な生活と抽象的な夢が仲良く手を繋いでいる。
あらゆる二項対立が、そこではグレーゾーンとして混ざり合う。
そしてそのグレーは、この上なく美しい。
こんなにきれいな灰色があったなんて?

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それはゲストハウスやカフェだけに許された空間だろうか。
美術館にも、一冊の本にも、その空間を作り出すことは可能ではないのか?
そして広告にも。

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広告は、そもそもそうではなかったか?
日常の中に非日常を魅せる存在ではなかったか?
とことん資本主義の狗でありながら、時代や社会に対するメッセージを
(あくまで生活者とフラットな目線で)表現してきたのではなかったか?

広告の嘘が、矛盾が暴露されつくした今こそ、
広告はその嘘や矛盾を正面から受け止め、苦悩すべきではないか?
そしてその苦悩を、広告が培ってきた「上質なイメージを魅せる」力を存分に活かして、
世の中に還元していくべきではないか?

広告ができること。
広告を作る者として自分がやりうることは、
そこにしかない。

その絶望と愛を真正面から受け止めよう。
そこから自分の哲学がアートがはじまる。