メとハ

雑感から世界をつくる試み

50年前、アポロ11号とわたしの父が打ち上がった

中学2年生だったという父はその日、英語教師が持ち込んだテープレコーダーから流れてくる英語に釘付けになった。

当時の英語の授業と言えば、日本人の英語教師が日本人向けにつくった教材と音声が限界で、そもそもネイティブの英語を聞く機会なんてなかった。

聴こえてきた英語はまさに本物だった。その日から父は英語に生きることになった。

 

親戚のお兄さんだったかにテープレコーダーをちょうどその頃もらっていて、先生からテープを借りてひたすらに聴き込んだ。ダビングの機能はまだなかった。

ひたすらに聴いて聴いて、一言一句まで覚えたその言葉たちを、今でも父はそらんじることができるらしい。

 

次の年には、大阪万博に父は意気揚々と「ネイティブ英語ハンティング」に出かけている。

わたしの地元では今でも外国の方と遭遇することは稀だが、その当時は本当に珍しかったようで、

国外からはるばる、なんと大阪にまで、そして大挙して来てくれるなんて願ってもない機会だった。

父の父と母に、祖父と祖母に、英語を話して録音してくるからと直談判し、録音機能付きのテープレコーダーとマイクを買ってもらった。

そのテープレコーダーに抱き合わせでついていた英会話の教本を隅々まで覚え、

片っ端から観光に来た外国人に話しかけては録音しまくった。

どんどん英語にのめり込んでいった父は自分の登下校を二宮金次郎のようだったと話していた。とにかく英語を読んで聴いては話した。

外国語大学に進学し、父は英語の教員となった。

再来年、定年退職となる。

 

テープレコーダーについていた英会話の教本をつくった先生は、40年以上もECC主催のコンテストで審査員長をつとめている方だった。

4、5年ほど前に父はそのコンテストの審査員になって、真っ先にその先生のところに駆けつけた。

先生の本で勉強して、万博に話しに行っていましたと。

その先生の感想がどうだったのかは、父は話してはいなかった。

 

今年はアポロ11号が月面着陸してから50年になるらしく、そういえばテレビ番組や書籍などをよく見かける気もする。

父は最近迷いに迷って1ヶ月だけ、という気持ちでスカパーに登録したらしい。ナショジオのアポロ11号特集が見たくて仕方がなかったそうだ。

ナショジオの英語音声がめちゃくちゃかっこよくて、久しぶりに英語を聴いて感動したとか。

 

スカパーとかの衛星放送は、地上波の録画と違い、1回ダビングすると元のデータが消えてしまう。

1時間の番組を数本録画した父は、CMを丁寧にカットし、何本かまとめてブルーレイディスクに保存版をつくろうとしている。

7本分でちょうどBD1本分になるとか。ちなみにCMを削った番組1本の長さは45分33秒だったとか。

 

ディスクと言えば父がはじめて買ったレコードは、アポロのドキュメンタリーレコードだったらしい。

50年前のその次の年だったか、近所のレコード屋に足を運んだ父は、3人の宇宙飛行士が写るジャケットを手に悩んでいた。

父の家にあったプレーヤーは小径のもので、今でさえプレーヤー側が小さくでも盤面が載って針さえ降りれば問題ないことは分かるが、

当時の父にはまったく予想のできないことだったらしい。

このレコードを買っても家で聞ける確証はない、でもここで買わないとなくなってしまうだろう。

今そのレコードは父の研究室にあるらしく、遊びに来た学生にたまに見せてあげるらしい。

 

実家には数百枚ものレコードが大量にあって、その大半はクラシックの演奏を収めたものだったが、

実はクラシックにはまったきっかけは、アポロ11号の録音を聞かせてくれた英語教師の影響だったらしい。

 

すべては50年前のアポロ11号と一緒にはじまった。

時代が父を英語に向かわせた。そして父はずっと英語を通して時代を見ていた。

たくさんのドキュメンタリーなんかで取り上げられるアポロ11号にまつわる逸話や豆知識や新事実を、

父は自分のことのように嬉しそうに話していた。

 

ちょっと遅れてしまったけれど、ハッピーバスデー、アポロ11号そしてわたしの父。

私たちは時代より空間のなかに生きている

 

 

って本当なんだろうか。

 

先日、友人が書いた記事を引用したツイートが、少しだけいつもより多くの反応を得ていた。

 

 

エリート層と『EXILE問題』と題されたその記事は、高学歴な仲間たちとのカラオケで誰一人としてエグザイルを歌っていなかったことに端を発する。

r-lib.com

 

彼の端的な指摘は、自分の感覚とも合致する。

いま自分の周りにいる人たちは、誰一人としてエグザイルを聴いていない。

自分も含めてカギカッコつきでエグザイルまたはLDHグループを語る。

 

でも実は、そんな自分もエグザイルを聴いていた時代があった。

 

郊外の公立小中学校で過ごした9年間。

少し色気づき始めた小学校高学年から中学校にかけて、ちょうどエグザイルはTAKAHIROが加入して第二章(さっき調べてそう言うことを知った)がはじまった頃だった。

 

女王の教室」が流行っていたころで、合唱曲で「道」が歌われたりしたころ。

JPOPの一部としてエグザイルを聴いていたし、カラオケでもよく歌っていた。

Lovers Againは持ち曲としていつか女子の前でかっこよく歌うことを楽しみにしていた気がする。

 

ついぞその目論見は叶わず、高校は公立の進学校に進み、エグザイルとは少しずつ何となく「ダサい」ものとして距離を置くようになった。

AKB48の出始めでまだ「オタク的」と市民権を得ず、iPhone3Gを持っていたクラスメイトは「なんか変なやつ」と評され、音楽好きといえばとりあえず東京事変は聴いていたような時代と空間だった。

 

 

話は変わるが、この間久々に地元の友だちを散歩をしていたとき、

彼女がWebで検索するときにヤフーを開いていて驚いたことを思い出す。

最近「ヤフーって誰が使ってるんだろう」「30〜40代のおじさんかな?」と疑問に思うことがあったのだが、こんなに身近にいたんだって。

20代のファッション感度もカルチャー感度もある程度高い女性だが、ヤフーを使って検索をしている。

 

そういえば小学校3,4年生だったか、はじめてパソコンを使ってみようという授業があったとき、

最初に開いたページはヤフーではなかったか。

そこから「そうかグーグルの方がシンプルでかっこいいな」「IEよりFirefoxでしょ」「Chromeでしょ」と自分はどっぷりGoogle教に浸かっていったのだが、

そのまま何の疑問もなくヤフーを使い続けている人はきっとたくさんいる。

だって別に全然検索できるし困らないし、あと学校で教えてもらったもので何となくの安心感があるし。

そういう習慣ってもう染み付いているから、「グーグルの方がシンプルでいいじゃん」「Chromeの方が動作が早いんだよ」と言ってもたぶん変わらない。

彼女だってPCからiPhoneにメインの検索デバイスがうつるとき、Safariの検索バーで検索すればGoogleに自然と乗り換えていたかもしれないのに、

わざわざ「ヤフー」と検索してポータルに行っているか、お気に入りから毎度ヤフーに行って検索をしているのだから。

 

そしてそういった「地元地方インターネットあるある」の話で言うと、LINEのホーム画面って同じ匂いがする。

あれも「誰が使うねん」と思ってたけど、地元の中学時代の同級生だった人たちが、SNSのように日々のつぶやきとか写真を上げていたりしていた。

たまにツムツムの通知(友だち招待でポイントもらえるやつ)や、投稿するとクーポンがもらえるような企業プロモーションに混ざりながら、Twitterにも似ているような、でもクローズドなので明らかに性質は異なるタイムラインがそこにはある。

たぶんヤフーを使っている感覚と近いのかもしれなくて、みんな使っている(いた)という安心感だったり、他に移る面倒臭さから「これでいいや」と使い続ける感覚だったり。

どうやら自分や自分の周りの人たちが見ているインターネットの景色とは、全く違う景色がそこには広がっているような気がする。

 

 

さて話は戻ってエグザイルであるが、最近汐留の地下通路では「HiGH&LOW THE BASE」なるイベントが開催されていた。

なんとなくLDHグループのものであること、前に映画でやっていたやつのポップアップショップなのかな、ということぐらいは醸し出す雰囲気から伝わるが、

壁面の写真に映る顔ぶれは一人も分からないし、次の映画やるんだっけ?コレ何のプロモーション?という程度の理解しか持てていない。

それは自分だけでじゃなくて汐留地下通路を通っている多くの会社員もしくは観光客も同じ感覚だったのかもしれない。

 

それでもそこに、多くの若い女の子たちがわんさか集まっているのだ。

手にたくさんのグッズを抱えて楽しそうに話している彼女たちの様子を遠目から見ながら、「ここって本当に東京なんだっけ?」と思わずにいられなかった。

この人たちは、一体普段どこに住んで何をしている人たちなんだろう。

 

いわゆるマイルドヤンキーと括らられるような層、地方郊外で地元を大事に生きる若者。

LDHグループを聞いていて、テレビはじめマスメディアも結構見ていて、

インターネットも使うけど基本はスマホで、検索はヤフー、LINEのホーム画面をSNSのタイムラインのような使い方をしている。

 

そんな人って、 地方郊外に限らず、東京にも結構いるんじゃないか?

 

 

話は再び飛んで、ちょうど1年前ぐらいにカメラのフィルムを現像しようと、

近くのショッピングモールまで自転車で行ったことを思い出す。

江東区北砂にあるアリオ北砂という箱型の施設は、だだっ広い通路があり、真っ白な照明のもと、両側にはどの商業施設でも見るブランドロゴが並んでいる。

中央の広大なフードコートには、ファストフード、うどん屋、安っぽい椅子とテーブルが並んでいて、プール帰りのような雰囲気の親子が晩ご飯を食べている。

 

自分が地元駅前の商業施設で過ごしていた景色とそっくりだった。

その当時はちょうど銀座SIXがオープンした頃で、自分の中では、東京はさすが、スケールが大きい、これは数少ない良いニュースとして世間に受け入れられるのではないかと勝手に盛り上がっていたんだけど、

じつは東京の中に生きていても、銀座SIXってニュースにすらなっていなかった人がたくさんいたんじゃないか。

 

 

冒頭、「これからのIT時代の企画出し」について語っているツイートを紹介した。

確かにインターネットに生きていない人は、インターネットの企画出しはできないかもしれない。

でも、インターネットにしか生きていない人には決して出来ない企画は、いくらでもあるんじゃないか。

 

ここ東京には、銀座SIXもあればアリオ北砂もあるのだ。

そこを無視して時代を一口に語ろうとすることは、それを承知の上で自分はそういう生き方をすると宣言するのでない限り、

つまり自分の周りの人たち、自分が興味のある物事に関することにしか向き合わないのだと覚悟しないのでない限り、

盲目的で時代と乖離している感覚を表明することになってしまう。

 

時代に対して常に開いた姿勢を持とうとすることは、とても難しいし不可能かもしれないけれど、

閉じた空間にいることを自覚して、自分はひとつのコミュニティの中しか分からない、その外のことは分かりきろうとしても分かりえないのだと、

絶望にも似た謙虚さを抱えていくしかないようだ。

言葉のない世界から

ダイアログ・イン・サイレンスにて。

聴覚障害を持つアテンドとの対話のなかで、「生まれて3ヶ月になる赤ちゃんの気持ちがわからないから、アドバイスをちょうだい」という女性がいた。

アテンドの答えは、「そりゃ3ヶ月だったら分かるわけないわよ」というもの。

「赤ちゃんの話なんて分からなくて当然、気にしすぎない方がいい。一応ベビーサインみたいなものもあるけどね」

そう言ってベビーサインを教えてあげていた。

その爽やかなやり取りに、ちょっと涙が出た。

 

自分たちのグループのアテンドは「まっちゃ」という。

まっちゃんは生まれつき耳が聞こえない。

唇の動きを読み、手話とボディランゲージと筆談を駆使し、自らも少しだけ言葉を発して人とコミュニケーションを取っている。

 

「買物とかどうするんですか?」という質問に「どうすると思う?」と問い返す。

参加者が思案しながら答える「絵を描く」「指をさす」・・

確かにそれもあるが、今はたとえば

スマホで画像を見せる」「Siriで音声入力する」ことも多いとか。

iPhoneと4Gってそれだけでも画期的なんだと思った)

 

音楽はわからないが、サンバで「スルド」という太鼓を叩いているという。

スルドはポルトガル語でdeafの意。つまり聾者ということだ。

あまりに大きい音が出るので、耳が聞こえづらくなる、というところから来ている。

その太鼓を、まっちゃが叩き始めるところから、サンバのリズムがスタートする。

「最初に叩きはじめるから責任が重くて、ちょっと休んでるのよ」とまっちゃは笑っていた。

毎年浅草のサンバカーニバルに参加しているという。(今年は、ダイアログ・イン・サイレンスがあるからお休みだ)

 

とにかくあらゆるタイミングで小ネタを挟み続けるまっちゃ。

入り口と出口で待つ案内スタッフも、半ば冗談か本気か分からない呆れ顔。

それでもまっちゃは軽やかに小ボケを繰り出していく。

しゃべらないと死んでしまうのかっていう人ってたまにいるが、それぐらい賑やかしい人だった。

 

プログラムの最後には、その時感じた気持ちを、表紙も中もまっさらな一冊の文庫本に書き留めることができる。

表紙カバーの色は7色?から選ぶことができ、それぞれの色は「きらきら」「もじもじ」「そよそよ」「ぐるぐる」といった微妙な感情オノマトペと紐付いている。

 

自分が選んだのは「そよそよ」だった。

あの赤ちゃんとのコミュニケーションに悩む女性と、まっちゃとのやり取り。

彼女はまっちゃの耳が聞こえないということを、じつはほとんど気にしていなかったのではないだろうか。 

年齢的にも大先輩であるが、彼女にとっては「言葉が伝わらない中でのコミュニケーション」が上手い先輩として話していた。

それは異文化コミュニケーションといった文脈でも語りきれない、もっと素直で素朴なコミュニケーションのあり方だったのではないか。

そこには気持ちのいい風がそよそよと吹いている。

 

「伝える」「伝わる」ということに、私たちよりも敏感なまっちゃ。

伝わらなかった経験が恐らくたくさんあったからこそ、伝わったときの喜びも大きくて、

でも多分、そもそも人一倍「伝えたい」という気持ちを持っていて、だから彼女はとってもチャーミングだったんじゃないか。

そして「伝えたさ」は、耳が聞こえても聞こえなくても、目が見えても見なくても、みんな等しくもっているものではないか。

私たちは、言葉がなかったとしても、きっと何かを伝えたくて、

そして幸いにも、それが伝わる、わかり会える同じ人間として、この世界にいる。

 

そのことを改めて信じたくなった。

趣味の宇宙

「趣味は?」と聞かれると言葉が出てこない。
たとえば山登りを趣味と言う人がいる。
ギター弾きがいて、コーヒーショップ巡りの人がいる。
フェス狂いの人もいれば、読書と言う人もいる。

別にそのどれもが好きであるが、
もしその事柄が他の誰の趣味でもなかったら、自分はそれをしていないだろう。

 

自分の中で「趣味」とは、誰のためでもなく、
誰に見られることもなく、仮に世界にたった一人であっても続けることだ。

そんなものは、自分の中にはありえない。

 

「質問が悪かった、では土日は何をしている?」と聞かれる。
これもまた、言葉に困ることが多い。

月に1、2度はプールで泳ぐ。たまに料理をする。掃除を済ませる。
大学の旧友と昼から飲む日もあれば、
最近仲良くなった人たちとパーティをする。
たまにフェスに行く。女の子と映画を見に行く。写真を撮りに団地に行く。

プールや料理や掃除を除けば、共通しているのは「人と会っている」こと以外ない。
さらに踏み込んで言えば、「誘われて出かける」確率が圧倒的に高い。

 

結局、「誰かに誘われて遊んだり、ご飯食べに行ったりすることが多いかな」と答えた。
趣味は?という問いにも、土日何してる?にも、満足に答えられていない気がして、
慌てて「なんだか面白い人に面白いことに誘ってもらえるんだよ」と付け加えた。

 

スタートアップをはじめた友人がブログを書くから、その文章を見て欲しいと言われた。
アートメディアをつくるから、その編集かなにか手伝った欲しいと言われた。
そうめんパーティに誘われて学芸大学の一軒家まで行った。
静岡までミスチルを見に行こうと言われた。
新代田でデザイナーがブリトー屋を開くから食べに行こうと言われた。

きょうは、大学のサークルの人に誘われて飲み会だ。

 

巻き込まれ上手と言われて半年が経つ。
そう言われてからは、半分意識的に、今まで以上に巻き込まれることにしてきた。
友だちが増えるたびに、「誘われる人」として紹介された。
新しい友だちにまた誘われたりする。
いつから誘われていたのか、もう今では分からないほどに、
ずっと誘ってもらっていた気がする。

圧倒的に他者依存の生き方。
自分の好きなものは、周りの人たちのほうが知っている。
「友だち」が自分の一部を作っている。
自分は周りの人たちの一部でもある。

 

でもそれも、無限の広がりでは無いのかもしれない。
「誘われたら全部行くの?」と聞かれ、
基本的には、と答える。じっさい、最近は断った記憶はあまりない。
それはもう、誘う人に感謝するしかない。
だって行きたくなるものに誘ってくれているのだから。
たぶん、「誘ったら来てくれそうなもの」が、
自分にも周りにも分かりはじめてきたのだろう。

それは、誘われないことも増えてきたということの裏返しなのだ。



このまま浮遊しつづけて、どこかに着地するのだろうか。
足場をつくることに怯えてはいるだけのような気もしている。
根を張る良さを知らないまま生きてきた。
不安定な状態で安定しつづけている。

いつまで、この無責任な生き方が許されるんだろうか。
いつかは自分もみんな、それぞれ地に足をつけて、
差し出す手の数を絞り、手を伸ばす距離を制限し、
あたらしい自分の宇宙を守っていくようになるんだろうか。

 

宇宙と宇宙の間の無重力空間で、誰にも見えない真の黒の中で、

最後にパッと光って消えてしまう覚悟を持てるだろうか。

 

それとも、宇宙と宇宙をつなぐやわらかな橋として、

みんなと繋がりつづけていく媒介になれるだろうか。

その時初めて、「趣味は、誘われることです」と言えるようになるのだろうか。

中動態の世界 國分 功一郎

哲学とアートが好きな理由は、
哲学者とアーティストに憧れを抱く理由は、
抜き差しならない個人の問題意識が表現されるからだ。

哲学者は机上で真理を探求していると思われるが、
その実は、彼ら自身の無視できない問題意識を、
いかに言語化し概念化し、理解し世界に落とし込むか、という
不断の取り組みを続けている。
でもないと、かくも複雑で難解で抽象的な問題を、
あれやこれやと言葉を駆使して長大な文章を書き上げられないだろう。

アートも同じだ。
ただ自己を表現したいという浅薄な欲望に突き動かされるのではなく、
彼ら自身が無視できない問題意識、
逆に言えばそれに立ち向かうことでしか生きていけないような壁に向かって、
それを打ち壊すという果てのない夢を想いながら
(そして打ち壊すことなど決して叶わないという絶望も抱えながら)
苦悩しつづける存在が、アーティストだ。
その中に時たま見える一筋の光(もしくは一筋の光も見えないという絶対的な諦念)を、
言葉に絵に音に彫刻に表出させ、世界に還元する存在だ。

そして彼らに尊敬を抱くもう一つの理由は、
その表現の際に、自分の背後で夢半ばで倒れてきた「仲間たち」
世界に立ち向かいつづけてきた同じく哲学者やアーティストの想いを、
全力で受け止めて更新しようとする態度だ。

自身が抱える問題意識は、
広い世界の長い時間のある時点で立つ自分に、偶然にも舞い降りたもの。
その背景には社会があり歴史がある。
問題意識はゼロから自分の意志で意識しはじめるものではなく、
器としての自身が過去から受け継いだバトンのようなものだ。
そしてどうにか一歩でもそのバトンを次の走者に繋いでいく、
その不断の営みが哲学でありアートである。

---

さて従来の(近代的な?)哲学とアートの手法が、
ここに来て「効かなくなってきている」と感じる。

ひとつの理由は経済の進歩かもしれない。
哲学もアートも、その昔は高等遊民の戯れであった。
裕福で生活に余裕があってはじめて、自身の問題意識に取り組む時間が取れる。
その状況は、必然的に哲学とアートが権力に結びつくことを要請する。
権力者は哲学やアートを保護し、恐らくは彼らに畏敬の念を示しながら、
自らの生きる理由を代弁する存在として彼らを活用しようとした。
そして彼らも、その状況に従わざるをえなかった。

今はどうか?
少なくともここ日本では、1億総中流の時代を経て、
明日の食べ物に困らないという人が増えている、と言ってよい。
貴族の遊びでしかなかった哲学とアートは、大衆に開放される素地を獲得した。
生活を保ちながら、一方で「自分とは何か?」「生きるとは?」「世界とは?」
という疑問を日々の中で差し挟む余地が生まれてきたのだ。

近代的な哲学とアートの手法が効かなくなってきていると感じるもう一つの理由は、
権力の相対化と、価値観の多様化があるかもしれない。
(そしてそれはメディアの変化がもたらしたものだ)

もはや誰も政府が偉いとは思わない。大企業の社長が偉いとも思わない。
起業家がかっこいいと思う若者がいる一方で、
フリーターとして楽しく生きられればいいやという若者がいる。

誰かの世界観に依存して生きることは、「あえて」それを選択しない限り、
そもそも選択肢にすら入らないようになっている。

逆に言えば、自分らしく生きることが今までに無いほど強いられる時代だ。
君はどう生きたいのか?なぜそれをやるのか?したのか?
明日はどうする?どうしたい?
意志と責任を常に尋問され続けるのが現代である。

その中で、「私はこう考えるんです」と一方的に押し付ける思想は、
倦厭され無視される存在となってしまう。
いくら真剣に苦慮し、どうにか世界に還元しようと思って吐き出した痛切な叫びも、
この現代を生きる上では一つの「つぶやき」と同列であり、
ときにはノイズとしてミュートされる。

---

それでも、である。
自分は哲学とアートが継いできた歴史を愛おしく思う。
そこには人間と世界に対する絶望と愛がある(ふたつは裏返しだと思う)。
くそったれでどうにもならない現実を、どうにか生き延びるために、
哲学者は言葉を積み重ね、アーティストは表現を信じてきた。
その態度はどこまでも人間らしい。
人間が世界に存在しつづけるためには、
哲学とアートが必要だ。

では、である。
哲学とアートは、現代においてどう成立できるのか?
権力に紐付いた、口うるさい親の小言と思われることから脱し、
人々が生きるために時に縋りたくなり、
時に自ら上手に操り、
そして自ら、ひとつひとつ紡いで伸ばしていくような
糸のような存在に、どうすればなれるのか?


---

ひとつのヒントはフラットさにあるのではないか。
目線を揃え、ともに考える。
そこに参加している人が、それぞれの問題意識に取り組める、
しかしそこには一定の共通意識もある。
そのために必要十分なものが、上質な状態で揃っている空間のような、哲学とアート。
まず考えはじめるための身体になるための、気持ちのよい空気。
そこに、考えるヒントとなる情報が、文脈として整理されつつも、
ひとつひとつの具体的な粒として並んでいる。

それは気持ちのいいゲストハウスに似ている。
洗練された都会的な空気を持ちつつも、実家のような居心地のよさがある。
(英語ではcozyと形容するらしい?)
見知らぬ個人が、その街をそれぞれの目的で訪れた一人一人が、
食事を共にし、川の字で眠る。
美味しい食事と、気取らずも十分に疲れの取れる布団。
訪れた人が残した感想ノート。
僕らは他人でありながら家族のようでもあり、
異邦人でありながら住人のようにもなれる。

日常と非日常が絶妙なバランスで溶け合っている。
具体的な生活と抽象的な夢が仲良く手を繋いでいる。
あらゆる二項対立が、そこではグレーゾーンとして混ざり合う。
そしてそのグレーは、この上なく美しい。
こんなにきれいな灰色があったなんて?

---

それはゲストハウスやカフェだけに許された空間だろうか。
美術館にも、一冊の本にも、その空間を作り出すことは可能ではないのか?
そして広告にも。

---

広告は、そもそもそうではなかったか?
日常の中に非日常を魅せる存在ではなかったか?
とことん資本主義の狗でありながら、時代や社会に対するメッセージを
(あくまで生活者とフラットな目線で)表現してきたのではなかったか?

広告の嘘が、矛盾が暴露されつくした今こそ、
広告はその嘘や矛盾を正面から受け止め、苦悩すべきではないか?
そしてその苦悩を、広告が培ってきた「上質なイメージを魅せる」力を存分に活かして、
世の中に還元していくべきではないか?

広告ができること。
広告を作る者として自分がやりうることは、
そこにしかない。

その絶望と愛を真正面から受け止めよう。
そこから自分の哲学がアートがはじまる。

ニュー・シネマ・パラダイス ジュゼッペ・トルナトーレ

あまねく主人公と名脇役は、等しく群像の一部である。
時代があり、社会があり、街があり、家族やすれ違う人々があり、
その中のたったひとりの小さな人生が、物語として切り出される。

だからこそ、小さな人生は大きな流れに回収される。

トリミングされたキスシーンたちも、元は誰かの小さな人生の一部。
一度は解体された物語たちは、アルフレッドによって繋がれることで、
別の物語の中で息づきはじめる。
そして、トトにとって特別なものとなったキスシーン・リミックスは、
あくまであの時代の要請が作り出したもの。

そう、映画とは、そうした
解体と再構築の螺旋を繰り返していくもの。

そういう映画の構造と歴史を肯定するために、
そうした構造と歴史を真正面から主題として捉え、反復する。

映画を愛し、映画のために生きた男を通して、
映画への愛と、映画が愛される街と社会と時代を描く。
その構造こそが映画そのものである。

ニュー・シネマ・パラダイスを貫く精神は、
それがオールドとなりクラシックになった今でも、
どこかで息づいているのだろうか?

 

スタンド・バイ・ミー ロブ・ライナー

良い物語は、完結しない。

4人が奇跡的に共有した2日間は、
あくまで長い人生の一部であって、
僕達はそれをたった2時間、垣間見るだけだ。

でもその2時間、スクリーンの中で確かに4人は生きていたし、
4人のそれまでの人生とその先の人生は、スクリーンに映らないところで
確かに存在している。


ひとの人生は些細で断片的な物語の連続で、
その1つ1つは綺麗に幕を閉じることなく、
輪唱のように連なっていく。

どんなにドラマチックで長大なエピソードも、
地味な選択の積み重ねで作られているし、

ひとの人生は、どの瞬間を切り取っても、そのひとの人生だ。


であるならば、良い物語とは?
たった2時間で、その人生のすべてを想像できる。
想像した人生のすべてから、2時間を捉え返せる。


そして、この人生と物語の関係は、
映画の2時間と各シーンの関係にも、類比して同じことが言える。
2時間のうちどの瞬間も、その2時間を代表している。
2時間を見た後に、1つ1つの瞬間が思い返される。

そんな映画こそ良い映画だという、
当たり前なことに改めて気づく。

あらゆる映像が、
表現手法・メッセージ・構造の3要素で成り立っていると仮定すると、
普遍的な構造を備えていることは、いちばん分かりやすい名作の条件だ。
表現手法は次々と現れてくるし、
メッセージは更新され続けるものだから。

 

 

そしてこの映画のメッセージは、
「一は全、全は一」という普遍的な構造そのものだ。

一瞬の青春時代のきらめきは、それだけで人生を語るに値する。
どんなに素晴らしい人生も、1つ1つの出会いと別れの連続でしかない。

永遠に一緒にいられないことは分かっている。
人と人は、最後は必ず別れるのだ。
でもその上で、「そばにいて」と歌い上げることは、
決して無邪気で無鉄砲な「青春の1ページ」として片付けられるものではない。

その一言には、
そんなことを言える友がいるという嬉しさと誇り、
その一瞬を大事に抱えながら生きていくのだという覚悟が込められている。

"Just as long as you stand, stand by me"
きみがそばにいてくれるなら、

人は、生きていける。